恋する顔

 

北大大学院文学研究科では、社会人等を対象にした公開講座を例年開設していて、2017年度は5月17日〜7月19日の毎週水曜18時30分〜20時の枠組でおこなわれる(W103教室)。ぼくはなんとその第一回め、5月17日の担当をおおせつかった。公開講座全体のテーマは「恋する人間」、ぼくは「恋する顔」というアプローチで講じます。要旨をいままとめたので、公開しておきます(事務局へ提出したものに、ほんのすこしアレンジを加えた)。 

 

「恋する顔」

 

「恋する顔」というと、通常は、瞳がうるみ、頬が上気し、唇のかわく「恋わずらい」の表情をおもいうかべられるかもしれません。ただしそれは表情を記号化しきったマンガなどにみられる描法であって、顔の各部位の微動、さらには身体との対照、周辺世界との照応によって「存在」を構築する映画では、俳優が魅力的になればなるほど、感情をそのまま表情に転写することをつつしむようになる傾向が洋の東西を問わず、あるようにおもえます。このとき「恋する顔」は、現代の映画俳優によって、どのように表現されているのか。

 

いくつかの仮説を考えてみます。「顔は手ほどには恋情表現が直截的ではない」。「みつめるまなざしには、みつめられることの期待と懲罰があらかじめ内包されている」。「表情は〈そのもの〉ではなく、無表情と有表情の交錯のあいだに生起する」。「恋を自覚する瞬間があるとすれば、それはよろこびというよりむしろ後悔を先取りして刻印している」。「恋は受苦の別名」。「ひとつの顔はいつも対面する顔にたいして実存的な決意を迫られていて、恋する顔はそうした要請にたいして最大の試練のなかにあり、それは決して夢見がちではない」。「顔に現れる恋を条件づけるのは、実際は表情ではなく、対象との近さ・遠さにすぎない」。「接吻はかならず相互的になり、恋の個別性を消去してしまう」などなど。

 

いずれにせよ、映画における「恋する顔」は、観客に潜在している「恋する顔」を浮上させ、そのことで同化とともに不如意にさえも導くものでしょう。もちろんそれが映画を観るときの大きなよろこびにもなります。

 

今回の講義では古典的なうつくしさを湛えたトッド・ヘインズ監督のレスビアン映画『キャロル』などを素材に、「恋する顔」をつうじて、映画を微視的に観る意義を考えてみます。ジンメルレヴィナス、ベラ・バラージュ、鷲田清一、西兼志など、すぐれた「顔」論も参照します。

 

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